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これからを生きる boys & girls ― 岩崎雄造

なんで勉強?勉強ってなに? 2010.02.10

 自分の好きなことは一生けんめいやる…って、これはあたりまえ。好きなことが勉強だったら言うことはないのですが、そうは行きませんね。スポーツ・芸術・ホビー的なもの・しかしケータイで友達と喋ることとか、「寝ること」となると、どうしようもないですね。親の立場から納得できしかも応援する気持ちになるのは、せいぜい芸術分野までのことでしょうか。好きなことに熱中しているわが子を見るのは快いものですから、親としては子供に何か好きなものを持ってほしいと望みます。そして、それが子供の将来に結びつくとすれば、夢のようでしょう。ところがその夢が達成している例はかなり少ないのも現実ですね。夢は見るだけのものと言ってしまえば、とてもさびしい。やはり「少年よ大志を抱け」と言いたい。どんどんチャレンジしていいのですね。

 しかし、問題なのは「夢」と一口に言っても、実に様々で、アイドルになってみんなを癒したい・オリンピックで金メダル取りたい、などの「野望形」から、保母さんになりたい・先生になりたい、といったごくありふれた「現実可能形」のものまで。ただし、アイドル・金メダルなどは、一体勉強とどう結びつくの?という側面がありますね。それに努力ばかりでも、どうにもならない。才能や運が味方しなければ、実際のところ、実現どころか足元へも近づけない。だから、無責任にお尻を叩くわけにもいかない。芸事、スポーツ関係に大きな夢をもたれると、大人としてはちょっと困りますね。まあ、放っておくかあきらめるのを待つしかないでしょう。非凡な子はそこからでも芽を出してくるものです。

 実現可能な夢を持つ子や、まだはっきりとした夢を持っていない子が、あえて言えば重要な対象です。私の見るところ、中学生にもなれば九割以上の子供達がこれにあたる。彼等に、「すぐ夢を決めなさい」なんて無茶は言えません。なら、彼等にとって学校生活とは学習とは、一体何なんでしょう。平たく言えば、「なんで勉強せなあかんのん?」というやつです。多くの大人達はこの問いに対して、まあ大体こんな風に答えます。「将来、困らんようにや」。ちょっとしたインテリなら、「将来の選択の可能性を広げるためですよ」。まさにそのとおりと言えばそのとおりですが、実に味気ない答えで、特に子供の心には逆らいもしなければ届きもしない。人生の半ばを経験した大人からの視点であって、子供側からは何も見えてこない非現実的な回答ですね。まだ、「ええ会社、入るためじゃ、あほんだら」の方が迫力があってよろしい。しかし、ともかくも子供達に何等かの形で勉強の意味は伝えなければならないのですね。

 私は生徒達に、二点のことを伝えるようにしています。一つは、役に立たないことを学べる贅沢なチャンスを無駄にしないように、ということです。特に中高で学ぶ内容はほとんどが絶対といっていいほど役に立たない。ここが大変重要なのです。役に立つこと、実利的なことは大人になってからでも、年を取るまでけっこう学ぶことが出来るものです。おいしい御飯の炊き方・シミの抜き方・庭木の剪定のし方などはおばあちゃんやおじいちゃんが教えてくれます。しかし、学校で勉強することはちがいますね。すぐに役に立つものを見つける方が難しい。日本地理ならまだしも、世界地理・動詞の活用・電流電圧・てこの原理・関数・立体図形等々…。日々の生活に直接関係しているなどとは、とても思えないシロモノばかりです。それらを総合して「教養」と言っていいでしょう。なら、なぜその「教養」が大切かといえば、ひとつは各人の視野を広くするという働きがあるということですね。あなたの毎日目にしているものだけで世界は成り立っている訳ではない。そして、世界の、ぼんやりと大まかでも、「全体像」を形成する働きがあるのですね。その全体像を持つことで、自分が時間的・空間的に、どの位置に在るかということを知っていく。大層に言えばそういうことではないでしょうか。そして、あとひとつ大切なことは、先人が何年にも渡って作り上げてきた、又発見してきたことに多く触れることによって、人間の歩みや営みに対する真摯な受けとり方や敬意を心の中に抱くことが出来る点なのです。こんなことがその人の人格形成の「核」になるような気がしてならないのです。

 また、あと一点、勉強の持つ意味は、「修業」ということです。小・中・高の勉強は「言われたことをやる」という基本に成り立っているということです。好きや嫌い・得手不得手は、その上に乗っかった付随的なことでしかない。言われたことをやる(しかも、できるだけしっかりと)という行為をとおして得られるものの重要性をもう一度見直すべきですね。文句を言ってもはじまらない。疑問を持ちつつもとにかく自分に与えられたことをやっていく。一見古臭く封建的な臭いさえしますが、何の分野であれ、そのような「修業的期間」を経験した人と、それを避けてきた人とではその後の姿・人間的内容に大きな差があるものなのです。丁度調理師志望の若者が、洗いものから始め、何年間も辛抱しながら、ひとつひとつの仕事内容を体得していく過程に似ていて、要は「不自由」からスタートして、ひとつひとつ発見しながら「自由」になる部分を獲得していく。最初は禁欲的姿勢を要する基本から入らなければ、少なくとも永続はしない。それをしっかりやるうちに次のステージが見えてきて、次第に発見をくりかえしながら、その分野の面白味がわかってきて、もうひとつ上の熟達を目指すことができる。つまり、不自由なところから始めるからこそ、発見や自由が見えてくるのですね。それが修業の意味です。勉強にも同様のことが言えます。勉強の初歩・基本は概してつまらぬものです。くり返しながら身に付ける側面が強い。この段階で好き嫌いの気持ちを持ち込んで怠けてしまうと、次の段階へ進めません。そして何よりも大切のなのは、指導者から指示されたことをまず文句なしに受け取って実行するという率直さです。反抗や疑問を持つのはその後でいい。

 このところ、個性を伸ばす教育とか、とにかく子供に興味をもってほしいという大人側からの発想で、勉強をゲームや遊びのようにカムフラージュして、諸々の部分を剥ぎ落として余白を沢山作った挙句に、その余白は子供の自由意志、あるいは「ゆとり」をなどと放任してきました。その結果、どんどん全体的な学力低下が進行してきたのですね。ただひとり、「名門進学校」と呼ばれる学校では、何のことはない、以前と同じスタンスを崩さず、レベルも落とさず、大体において昔どおりの指導を維持しています。大変「歪つ」な状態が、この十年間続いているということで、犠牲になったのは当の子供達です。この間公立校で過ごした生徒達は、私の眼には「ロスト・ジェネレーション(失われた世代)」のように見えてならないのです。だからこそ、勿論、復古的であることは百も承知でこの二点を強調したいのですね。

 一、役に立たないからこそ大切な勉強。
 一、勉強はすべての子供に平等に与えられた「修業」のチャンス。

 つまり教育は、社会全体が子供達に平等に与えられている「育て」のしくみなのですね。それに特殊な思惑を入れるのは感心しません。少数の「ビル・ゲイツ」を育て、あとは消費活動をひき受ける十把ひとからげの一般大衆を作ればよい、というのがゆとり教育の本音のように、私には思えます。ひとりひとりが人間としての自己を発見し尊厳と誇りを持って生きていくために教育はあるのです。そのために、もう一度勉強というものの個人に与える働きを再認識すべきだと思いますが、どうでしょうか。

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