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これからを生きる boys & girls ― 岩崎雄造

肉声指導・姿の指導 2010.03.05

 パソコンを利用した学習指導は、もう二十年前から始められていました。これはすごいものが出てきたものだ、と思ったのを記憶しています。しかし、同時に、これはなかなか定着普及しないだろうな、とも思えたのですね。理由は、やはり相手が機械で、能率はいいでしょうが「共感」というものがない。パソコン学習の利点は第一に「オンデマンド」という点でしょう。自分のやりたい時にやりたい単元をやることができる。つまり、自由なんですね。ところが、前回にも述べたように、自由から始めるのが結局一番難しい。特に小中学生の基礎学習においてはそう言えますね。指示されたことから始め次第に自由な範囲を広げていくのが自然なのです。こんなふうに言うと、いかにも子供を束縛するのがいいと思われそうですが、自由時間はたっぷりとっていいし、のびのび羽を伸ばせる余裕は必要です。ただ、勉強に向かう時は、違った心構えが必要です。物事を吸収しようとする姿勢ですね。これはなにも難しいことではない。教師の言うとおりにやってみることです。なんだか命令されたことをそのままやっているようでいやならば、教師がオーケストラの指揮者で自分は楽器を演奏するんだ、くらいに考えてみたらいい。ちょっと退屈だと思うかもしれないけれど、そこが出発点ですね。

 生徒のほうがそんなふうに素直な心境で構えてくれるとすれば、教える側の責任はたいへん大きい。少なくとも生徒の構え以上の強い気持ちが必要です。生徒の注意が教師に集中します。教師はそれに教えようとする熱意で対する。無言のうちにも、ここにもう「心のやりとり」があるわけです。そこからの内容への導入とか、説明方法、演習など、技術的なことはさておき、生徒の興味を惹きつけ理解へと導くのは、教師の最低限度の努めです。しかし、そこには教師の個性は出てこない。つまり、一定のレベルに達した教師なら、だれが教えても大差はないのですね。

 生徒の会話のなかによく聞かれる「あの先生の授業はやる気がでるわ」というやつで、勿論その反対もあるのですが、生徒に持続する向学心を植え付けるのは、また別の要素のように思えます。この場合、生徒は教師の人間性を感じ取るか、あるいは、人間としての教師にある種の興味を持っているのでしょう。親近感、信頼感、また好奇心など、それによって教師との距離を縮めてきます。かといって、教師のほうからべたべた近寄っていっていいとは限らない。それが必要な場合はむしろ稀だといっていいでしょう。大切なのは、あくまで生徒、つまり次の世代を担う若者への愛情、自分の人生でなすべき義務感。大そうに言えば、つまるところ、教師自身の人生観・世界観がどれほどの確かさで生きているか、ということになるでしょう。そこから生徒への対応のしかたが出てくる。

 しかし、なによりも大切なのは、生徒に対してどのような姿を見せているかという点ですね。極端に言えば、子どもたちは教師の言葉よりも、むしろその「姿」に敏感に影響を受けるようです。言葉は共通なものですが、姿となればこれはもう抜き差しならない。教壇に立てば、もうごまかしが利かない。とにかく見られているのです。その点では教師とは役者みたいなもので、生徒に「元気を出せ」と言いたいなら、それなりの気迫とか親密さとかを切実に表さなければ、なかなか真実味を帯びてこない。ある種の「表現」ですね。わざとらしいのも困るのですが、その表現がさらりとできなければなりません。教師がそこのところを恥ずかしがったり、ためらっていたりしてはだめですね。また、格好をつけていてもだめ。往々にして自信が足りない教師に見られる傾向ですが、子供から見れば、これほど見苦しい姿はありませんね。つまり、子供への熱意とか愛情があれば、あとは自分を晒すだけ。そのような覚悟が要るのです。「姿」をしっかりと見せると言ってもいいでしょう。

 子供はしっかりと見ているのですね。大人から発せられる空虚な言葉や建前などさらっと聞き流していますよ。いつごろからか、大人は子供に自分の姿で引っ張っていくということをしなくなったように思います。塾の指導においても、その点に留意しないと効果は表われません。といってなにか特別な、あるいは過激な方法をとるべきかというと、けっしてそうではありません。一口に言って、心底からの「誠実さ」「熱意」ということに尽きます。もう何年も前になりますが、私も続けて二人の息子の受験を親として経験しました。仕事柄かえって自分の息子には手をかけることができなかったのですが、またそれだけにたいへんな心配をしたものでした。親の心配がどれだけのものかは痛感しています。今では、僭越なことですが、生徒のすべてを自分の子供のように思って指導すること、そのことを指導の基本的な精神とする、と肝に銘じています。また、それがやりがいにもなって、私を支えるようになりました。すべての生徒に対して取れる手間、時間はどうしても限られたものになってきます。ただ、すべての生徒を等しくかけがえのない「未来」として、時には自分自身のある部分を犠牲にしてでも、ともに歩み引っ張っていくという気持ちなしには、塾講師としての自分の存在の意義はないと、少々大袈裟ですが、信じています。そして、そのような自分の気持ちは、必ず「姿」となって、生徒に伝わるものと、自惚れかもしれませんが思っているのですが。これはいわば情熱のようなものかも知れません。その情熱を大きく支えているのは、人間に対する好奇心と言っていいでしょう。毎年毎年新しい生徒との出会い、発見、学習内容、指導方法についての追求。マンネリになっている暇はないのです。この仕事は実際、何年やっても飽きないですね。
ともあれ、教師は自分の内部をつねに充実させたうえで、「見られている、見せている」の感覚を張り詰めていなければなりません。生徒に無理のない範囲で自分の熱意を効果的に実行に移すこと。そのためにはけっして手間を惜しんではならない。妙なプレッシャーを与えてはならないし、隙を見せてだらけさせてもいけない。「理解さえさせたらいい」というようなものではないのですね。生徒がその姿を見て、そこから意欲や夢を膨らませることのできるような、そんな存在を目指すことが今こそ大切だと思えるのですね。たいへん大それた目論見であることは重々承知の上で、そんな努力を重ねる毎日です。

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